水野葉舟 3

 私は目も疲れた。――からだは今朝から長いあいだ、窮屈な態をしているので、方々が痛い。――その疲れた目を、力なく後に残り続いて行く道の上に落とした。見るとなしに道が目にはいっていた。
 すると、その道の両側に、ごまの実そっくりな形をした、実がはじけてついている草の枯れたのが、つづいて立っているのを見た。「やまごま」、そんな名の草のあることを聞いたように覚えている、この珍らしい雪国に来たのだ。或いはその草かもしれぬと、私は故もなく思った。
 崖の道は山にはいった。水の流れも聞こえなくなった。そしてとうとう雪が降り出した。
 それから二時間ばかりして、もう日が暮れかかった。馬車の中はいよいよ無聊だ。中の人のあいだで又思い出したようにそろそろ話がはじまった。
 その中に私もはいった。やがて、向い合って坐っていた老人に、「今来た道に、ごまのような草がありましたが、何でしょう。山ごまと言うのではありませんかね。」
「山ごま? そんなものは知りませんが、何だろな、ごまのような、草って……」
「種がたくさんついたまま、枯れていたのです。」
「あ、あれは月見草。」

 これも同じく遠野で聞いた談だ。その近傍の或海岸の村に住んでいる二人の漁夫が、或月夜に、近くの峠を越して、深い林の中を、二人談しながら、魚類の沢山入っている籠を肩にして、家の方へ帰って来ると、その途中で、ひょっこりとその一人の男の女房に出会った。その夫は女房に向って、「お前は、今頃何処へ行くのだ」と訊ねると、女房は、「急に用事が出来たから、△村まで行って来ます」と答えたが、傍で同伴の男が、見詰ていると、女はそういいながら、眼を異様に光らして、籠のあたりを、鼻先をぴくぴくさしている模様が、如何にも怪しいので、これはてっきり魔物だと悟ったから、突然その男は懐中にしていた、漁用の刃物を閃すが早いか、女に躍懸って、その胸の辺を、一突強く貫くと、女はキャッと一声叫ぶと、その儘何処とも知らず駈出して姿が見えなくなった。夫は喫驚して、如何したのだとその男に詰ると男は頗る平然として、何これは魔物にちがいない、早く帰ろうといいながら、その男の袖を引張るようにして、帰途に就いたが、夫なる男の心配は一方ではない。

 S君の家に着いた時には、もう夜がすっかり更けていた。
 途中で寄り道をして、そこですっかり話し込んでしまったので、一里余りの道は闇の中をたどって来た。闇の中にひろびろと開けた、雪の平を通って来た。闇と言ってもぽっとどこか白々として、その広い平がかすかに見透かされる。そして寒い風が正面から吹きつける中を歩いて来たのだ。
 歩いて来た道は、川に沿っていた。雪の中に黒く見える流れだった。水の音がただ絶えず気疎く耳についた。雪の中をオヴァシューズでS君の家の裏口の方から庭にまわった時にゴム底が凍った凸凹になっている雪の上を歩くたびに、ギュッ、ギユッと音をしてすべる。そして疲れた足には、それが言いようもなく重く思われた。
 で、雪のあるうち、近道だと言って、畑の中を直線にふみ付けた、道から、家の裏口に出た。家に着いたと言われた時には、ほっとした。自分は雪明りで、時計を見ようとしたが見えなかった。S君が傍からマッチをすってくれたので、もう十一時四十幾分になっているのを知った。